『ストレスと筋疼痛障害』推薦のことば:車谷典男 氏
『ストレスと筋疼痛障害』推薦のことば:
車谷典男氏(奈良県立医科大学 地域健康医学教授)
本書の主題であるchronic myalgia(慢性の筋肉痛)は、産業保健領域で現在に至るまで重要な課題であり続けている頸肩腕障害と職業性腰痛の中核症状であり、かつ病態の解明が急がれている症状でもある。
話は1960 年前後にさかのぼる。高度経済成長を目指すわが国に、キーパンチャーが新しい職業として登場した。0から9までの数字といくつかの英文字が縦長に配列されたキーボードを使って、コンピューターへの入力情報を連続した細長いテープに穿孔(パンチ)する作業である。穿孔という文字面からも想像できるごとく、当時のキータッチは電動式ながら実に重かったという。しかも、ひたすらキーを打ち続ける作業であり、1日10 万タッチを超える者も少なくはなかった。こうした労働者の中から、使用頻度の高い手指を中心に腱鞘炎が多発し、社会問題にまでなった。技術革新下の新しい職業病として注目を集めたキーパンチャー病である。
以来、多くの職種で上肢系の障害についての研究が急速に進められた。その結果、時を経ずして、キーパンチなどのような反復作業だけではなく、上肢を上げた状態で行う作業や、頸や肩の動きが少なく姿勢が拘束された状態で行う作業、そして上肢の特定部位に負担のかかる作業でも、それぞれ症状発現部位などに特徴はあるものの、手指のみならず前腕・上腕・肩甲帯・頸部・後頭部に、こり・だるさ・痛み・しびれ、筋硬結・筋圧痛,運動痛・運動制限が発生する疾患が、新たに頸肩腕障害という名の職業性疾患として広く認識されるに至った。
労働現場で多発する腰痛についても同じように研究が進み、作業態様を要因とする腰痛を職業性腰痛と称することも提案された。最近では、頸肩腕障害などとあわせて、作業関連性(work-related)運動器障害あるいは作業関連性筋骨格系障害と呼ばれる。
この分野でのわが国の研究は世界に先駆けたものであった。とりわけ作業態様との関連性の確認や病像の確立には特筆すべきものがある。産業保健領域の先人たちの多大な貢献による。しかし残念ながら、学際的な研究に乏しかったことが、わが国における発症機序や病態生理についての研究の歩みを遅いものにした。たとえば,本書の主題である「軽い負荷の繰り返しが、なぜ慢性的な筋肉痛を引き起こすのか」が、依然として解明されないままでいる。こうした研究の遅れが、頸肩腕障害や腰痛の患者が訴える「痛み」についての認識を、専門家の間ですら、不十分なものとしてきた嫌いがある。
その意味で、作業関連性運動器障害の中核症状であるchronic myalgiaについて先導的な知見を総括した本書は、わが国の関係者に待ち望まれていた画期をなす論文集である。いくつかの章を拾い読みするだけでも十分楽しいし、興味もわき、理解も進む。章を追って読めばなおさらである。終章のブリュッセルモデルは特に素晴らしい。
こうした価値をもつ専門書が学識豊富な研究者によって日本語に訳され、多くの人の目に留まりやすくなったことは、わが国の研究に大きな刺激を与えることになろう。
それにしても、この大作をよくごくわずかな人たちだけで翻訳できたものと驚かざるを得ない。私も乏しいながら監訳と分担訳の経験がある。白紙から書き始める原著論文などと違って、訳しさえすればいいから簡単ではないかと思いがちであるが、そんな甘いものではない。血のにじむような、と言ってしまえば、語学にも堪能な先生方に失礼になるだろうが、実に根気の要る大変な作業である。原書の高い科学的貢献度を見抜く洞察力と、それを翻訳出版することの社会的意義についての揺るぎない信念がなければ、達成不可能な作業である。
本翻訳が、産業保健スタッフのみならず広く関係者に活用され、版を重ねることを期待したい。