『20世紀環境史』 序文
『20世紀環境史』
—— ポール・ケネディ氏による序文
20世紀初頭の西洋人はすでに、その集団的な経済活動が環境に変化を及ぼしていることに気づいていた。サケはもはや、化学汚染された川を遡上することはなかった。工業都市の大気 —— そして、その大気が風によって運ばれる地域 —— は燃焼した化石燃料の粒子で満ちあふれていた。スモッグが原因で、毎年数千人に及ぶ呼吸系疾患者の命が奪われた。新たな石炭供給のために巨大な深い傷が景観に刻まれ、その鉱滓 (スラグ) が、かつては居心地の良かった田園地帯に汚点となって積み上げられた。
環境を荒廃させる2つの原因が、1900年にはすでに知られていた。その1つは、過去400万年の間は微増を続けていた世界の人口が、18世紀後期に加速度的に増え始め、いまだに衰える気配を見せていないことであった。2つ目は、1760年以降の産業革命が生物エネルギーの代わりに非生物エネルギーの使用を可能にしてから、人類の経済活動が急速に発展したことであった。それゆえ、キューバのホセ・マルティ [1853~95。文学者・革命家] やイギリスのH・G・ウェルズ [1866~1946。小説家・歴史家・社会活動家] のような知識人は、人間活動におけるこうした巨大な波が、自然を悪化させることなくその後数十年間も持続可能なのかどうか、疑問を抱いた。
彼らのような作家がもう100年生き続けたならば、20世紀におけるさらなる急速な変化を目の当たりにして驚嘆したであろう。20世紀を通して世界の人口は4倍になり、世界経済は14倍に拡大し、エネルギー使用は13倍になり、産業生産は40倍に拡大した。しかし、二酸化炭素の排出量も13倍に増え、水の使用は9倍になった。これらすべてが悪いニュースというわけではない —— 実際、20世紀の生産性の増大は、先人たちの厳しい貧困状況から何億人もの人々の生活水準を向上させたのである。しかし、20世紀の歴史は、変化の規模と強さが並外れており、環境の観点から見れば、過去の時代とは全く異なっていた。
知的な世界市民すべてに対して2つの挑戦がなされている。その1つが、この過去の世紀に起きた環境変化とその結果を正しく理解することである。そして、2つ目は、われわれのうかつで集団的な行為によって、危険な閾値が破られてしまう前に、これらの問題に対処する方法を真摯に考えることである。環境の変化をまず理解し、その上で適切に対処すべしというこのメッセージは、マクニール教授が行った過去の世紀に対する聡明で非常に簡潔な検証の特質である。本書のタイトルSomething New Under the Sun [太陽の下、この世で新しい何か] が明確に示しているように、少なくとも環境変化に関する限り [旧約聖書の] 『コヘレトの言葉』 の 「この世に新しいものは何もない」 という主張は間違っていたかもしれない。マクニールが第Ⅰ部の7つの章で示したように、われわれを取り巻くすべての 「圏」 —— 岩石圏、土壌圏、大気圏、水圏、生物圏 —— に対して、人類が20世紀に与えた衝撃は過去の全歴史の合計よりも大きかった。1つの統計がこれを要約している。マクニールの (大まかな) 計算によれば、20世紀の人間は、1900年以前の千年にわたる先祖の合計より10倍も多くのエネルギーを使ったのである。
しかし、マクニール教授は、環境変化の単なる記録者ではない。彼が本当に関心を持っていることは、彼が 「地球の歴史と人々の歴史」 と呼ぶ両者の相互作用である。それゆえ、本書第Ⅱ部の各章が、第Ⅰ部と同様に、いやそれ以上に重要である。そこで、彼は巧みに人口増加、移住、技術的変化、工業化、国際政治、アイデアなどの各要素を、環境政策の領域へ繰り返し 「還元」 させながら分析している。
マクニールは、ラッダイト [反産業革命の機械破壊者] でもなければ、独断的な 「変化否定」 の環境保護主義者でもない。彼はグローバルな社会が着実に生態学的な危険領域に接近しつつあるので、われわれは賢明になり、そうならないように行動を起こすべきであると警告している。
本書は非常に洞察に満ちた明解な本である。深遠なるメッセージを伝え、一般市民から政治家に至るあらゆる人々に広く注目される内容になっている。