食卓のユートピアへ —— 『美食家の誕生』
〈よく食べる〉 とは。食卓のユートピアへ。
—— 『美食家の誕生』
近代の美食といえば、まずフランスを思い浮かべる方が多いことでしょう。2013年、和食がユネスコ無形文化遺産に登録されることが決定したことは記憶に新しいところですが、それに先立つ2010年10月、「フランス人の美食学的な食事」 が同じくユネスコ無形文化遺産に登録されています。
世界でも屈指の水準を誇るフランス料理技術とそのイメージが決定的なものとなっていったのは19世紀を通じてのことですが、この発展の直接の契機となったのは、1789年に始まるフランス革命であったとされています。
貴族制を廃したフランス革命は結果として、それまで王侯貴族や一部の富裕市民という、ごく少数の人々に限られていた美食の世界を民衆に開放することとなります。パリではレストランの数が激増し、食料品店は溢れんばかりの商品で通行人を惹きつける……人々はいまだかつてない美味なる体験に酔いしれました。
ほどなくして、我々にも親しみのある 「ガストロノミー (美食学)」 という語が近代フランスで初めて登場することとなるのですが、それは同時に、以前の時代にはほとんど発達することのなかった、〈食べ手〉 による、料理についての専門的言説の誕生をも意味していました。フランスにおける 〈食べ手〉 による美食言説の端緒 ——。本書で読解することになる、グリモの主著 『美食家年鑑』 や、『美味礼讃』 の邦題で日本でもよく知られているブリヤ=サヴァランの 『味覚の生理学』 は、こうした食べ手による美食言説の代表的な一つとなっています。
グリモ・ド・ラ・レニエール (1758-1837) は、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した、フランスの著名な美食家であり、レストランが新しく誕生するフランス革命後の世にあって初めて 「美食批評」 を行った人物として歴史上位置づけられています。
初の美食批評の書にして現在の 『ミシュランガイド』 にも連なる、グリモの主著 『美食家年鑑』 は、美食関連の店が次々と生まれるパリの街を軽妙な筆致で描き出すとともに、食の持つ意味を含蓄深く示してくれる作品でもあります。
いっぽう、生まれ落ちた家庭環境から青年期の行動、美食家としての活動を開始してからの独創的な発想にいたるまで、グリモの特異性には際立ったものがあります。彼の奇矯な人となり、突飛な行動の数々は同時代人の関心を惹き、さまざまな人が彼に関する文章を残しています。
本書は、これまで本格的に論じられることのなかったグリモについて、『美食家年鑑』 を中心としながらも、周囲の人々の文章に記された伝記的事項をも含めて、グリモの/についてのディスクールならびに行動を総合的に考察していきます。
しかし、本書は、たんにグリモという新奇な人物の紹介にとどまるものではありません。
〈美食〉 という、これまで十分に認知されてこなかったテーマについて、グリモという最良の素材を通じて検討することにより、文化としての美食研究の可能性を大きく広げるものでもあります。従来は文学のいわば 「亜流」 として、そうでなければ文化人類学あるいは歴史学、家政学的な視点からのみ語られてきた 〈美食〉 を、思想史を中心に検討することで、本来複合的であるはずの 〈食べる〉 という行為の持つ意味を損なうことなく考察することを可能にしてくれることでしょう。
橋本周子 著
価格 5,600円
A5判・上製・408頁
ISBN978-4-8158-0755-9 C3022
在庫有り