『ものづくりの寓話』:第53回「日経・経済図書文化賞」選評
吉川洋氏(東京大学教授)の総評より 【2010年11月3日付日本経済新聞より】
……いつの日にかデトロイトを凌駕しようとは誰も夢想だにしなかった日本の自動車産業。日本の自動車産業はいかにして今日の地位を築いたのか —— 。本書はこうした問いに答えるべく、戦前からのトヨタの歩みを跡づけた大著である。
トヨタといえばカンバン方式という、通り一遍の通説が流布する中、著者はその誤りを一つ、また一つと実証していく。そもそもトヨタ以前に有名なフォードのT型車についても、私たちは「神話」を信じきっていたようだ。
とはいえ、部品表のシステム化こそがトヨタによる生産方式革新のコアだとする本書の一大テーゼを、このわずかのスペースで分かりやすく紹介するのはそもそも不可能である。詳しくは優れた学術書であるとともに、読み物としても興趣あふれる本書を実際に手にとって読んでいただくしかないだろう。
審査委員会では「本書は特賞に値する」という声もあった。今年度最大の収穫であるだけでなく、長く学界の財産となるべき著作であるといえよう。……
伊丹敬之氏(東京理科大学教授)による選評 【2010年11月3日付日本経済新聞より】
「大きな歴史 丁寧に描いた大作」
1910年代のフォードのハイランドパーク工場から70年代末に操業開始したトヨタの田原工場までの、フォードの生産方式の歴史的変遷と日本への受容、そしてトヨタ生産方式の発展。その大きな流れを極めて膨大な資料から細かく描き出したのが本書である。
著者は読者を著者自身の「素朴な疑問」の連続の旅に誘う。出発点は「コンベヤー方式はフォード生産方式の真実か」である。
ハイランドパーク工場からリバールージュ工場へ、そして工場の建物や機械の配置から工場内のものの流れへ、トヨタの労働争議から工場の原価計算やカンバンシステムを経て部品表の電算化へ……。著者が語るディテールに圧倒されながら、読者は自動車を中心とする「互換性部品」を用いる大量生産方式がいかに変貌を遂げてきたか、その歴史の流れを感じることになる。
「ものの流れと思想の流れ」、これがこの本の基本モチーフのように見える。歴史家とは恐ろしいものである。小さく見えることをないがしろにせず徹底的に調べた上で、膨大な資料を紡いで歴史の流れを描き出すことに成功している。
その流れを本書は寓話という視点でもとらえようとした。誰もが信じているが、もはや真実のコアではない話、それが著者のいう寓話である。
フォードのコンベヤー方式も寓話なら、トヨタのカンバン方式もある意味で寓話である。トヨタの生産方式の真実は部品表をつくれる能力、そのための人材教育、そして部品表を電算化して使えるシステム能力、そこにあると著者はトヨタ生産方式の到達点を言いたいのであろう。面白い結論である。それだけに寓話が生まれてきた経緯とその破壊に加え、到達点の詳しい話とその影響をもっと書いて欲しかった。
しかし、それは歴史を本職としない、経営の未来により興味を持つ経営学者の望蜀の感なのだろう。アカデミズムの徹底と現実感覚の鋭さ、そして細かなディテールと大きな歴史の流れが同居した希有な大作である。