『胃袋の近代 —— 食と人びとの日常史』の刊行によせて

湯澤規子“『胃袋の近代 —— 食と人びとの日常史』の刊行によせて”

胃袋の近代

 なぜ、「人々」ではなく、「人びと」なんですか?
 その日初めて私の研究室を訪ねてきた学生は、できたばかりの本の表紙を見てそう言った。正鵠を射る、とはこのことである。

 私は今から約100年前、「近代」とよばれる時代の都市の街路や市場いちばの雑踏、田んぼの畦道や大根畑の脇道を歩き、新しく登場した織物工場や寄宿舎にもぐり込み、そこを行き交う人びとの声や足音、工場の喧騒に耳をすませ、絶えず鼻をつく食べものや汗や土のにおいをかぎ、時に彼らと寝食を共にした。と書くと、大げさに聞こえるかもしれない。また、学術研究をする身としては、あまりにも客観性に欠けると批判されるかもしれない。

 しかし、膨大な史料に埋もれながらその解読に没頭する過程で、また、フィールドを歩き、喜怒哀楽に彩られた多くの人の昔語りに耳を傾ける中で、私は「確かに今、100年前の人びとと共にいて、その雑踏の中に身を置いている」、と思わずにはいられない瞬間を幾度となく経験することになった。これが歴史を「追体験する」ということなのだろう。おそらく、今後の研究人生の中でこのような経験をすることはもう二度とない、とさえ思える、貴重で不思議な体験であった。

 そのような体験のなかで、私には、「近代という時代を行き交う雑踏のなかには実にさまざまな人びとがいて、誰もが時代の担い手」(本書3頁)であるように思えてならなかった。冒頭の問いに戻れば、人々の「々」は「同じ」、あるいは「くりかえし」という意味であるため、「さまざまな人」、かつ彼らのそれぞれが近代という舞台に立つ唯一無二の固有の存在であると言うためには、「々」ではなく、あえて「びと」とする必要があったのである。タイトルを印象付ける「胃袋」という言葉と同じくらい、いやじつはそれ以上に、私はサブタイトルにさり気なく佇む「人びと」という言葉に意味を込めた。「人びと」という言葉は、本書に登場し、交錯する、じつに多様で豊かな人生をみずみずしく、かつ躍動的に描くためには欠かせない、本書の底流となる重要な水脈なのである。

 こうして五感を研ぎ澄ませて知り得たさまざまな事象が徐々に、しかし、くっきりと像を結び始めた時、それがまるでひと続きの物語のように見えてきたことも、私にとってはさらなる驚きであった。この像がほどけてしまいませんように・・・・・・、と祈るような気持ちで夢中で書き留めた内容の全貌が本書、『胃袋の近代 —— 食と人びとの日常史』である。

 はじめは何の関係もないように見える事象、別々の場所で出会った史料、活躍の場も立場も異なる人びとの人生や志が思わぬところで結び合い、共鳴し合うことになったのは、本書が人間の多様性への理解に重きを置く一方で、「胃袋」という誰もが持っている身体の一部に着目し、誰もが経験している「食べる」という行為を、歴史を描く視点に据えたからだと思えてならない。その意味で、「胃袋」から、つまり「食べること」から歴史を描くことは、歴史学の一つの可能性と新しい方向性をあわせ持っているといえる。しかし、そうだとするならば、なぜ、これまで胃袋から見た歴史は存在しなかったのだろうか。

 それは「食べること」があまりにも当たり前の日常の出来事であるがために、とりたてて記録され、論じられることがほとんどなかっただけでなく、経済活動の中でも生産活動への注目に偏ってきたこれまでの研究のなかでは、生活をめぐる諸事象は歴史化されないまま残されてきたからである。しかし、幸運なことに、近代という時代には、急速に拡大する都市へと集まる労働者たちの胃袋を満たすための集団喫食のシステムや、食料の体系的な生産と流通のしくみが整えられたために、それに関わる史料が各地に残されるようになった。つまり、歴史を描くうえで「食べること」に注目することは重要である、と自覚できさえすれば、史料がおのずと語りだす準備はできていたのである。

 食べることは人間にとって、最も重要かつ日々逃れられないさがのひとつである。それはいかに飽食の時代になろうとも変わることがない。本書ではそれを注意深く見つめることで、私たちが「生きる」とはどういうことかを考えようとした。そのために、「食べる」というよりは「喰らう」というニュアンスに近い庶民の胃袋をめぐる経験と風景から、人びとの生きる姿と彼らの悲喜こもごもを、世相との関わりのなかで描いてみたつもりである。

 その結果、胃袋から歴史をひもとくことは過去を知るということにとどまらず、私たちが生きる現代とその先の未来を考えることにもつながった。「食べるという行為は極めて『個人的』なものにみえて、じつは同時に極めて『社会的』なものなのである」(本書268頁)ということに気づき、「食べることに、本能としての食欲の充足以外の意味を付与するのは、人間が手に入れた一つの可能性である」(本書268頁)ということができたのは、歴史を学び、追究することが、自分以外の誰かを深く理解しようとする試みであるからにほかならない。過去の人びととの対話は、生きる世界や価値観の選択肢は決して一つではない、と気づくきっかけとなり、それは自分自身や現代を問い直す行為へとつながる。「誰が胃袋の心配をするのか」という問いに対しても、本書で描いた過去の出来事や人びとの実践に照らせば、私たちがこれまで考えてきた以上に柔軟で豊かな議論が展開できるかもしれない。

 なぜ「人びと」なのか、と問いかけてくれた学生たちと一緒に、そして、本書を手にとってくださった皆さまと本書を囲み、「胃袋」から見えてきた歴史を通してこれからいったいどんな議論が展開するのか、皆さまの人生と本書がどのように共鳴し合うのか、それにじっくりと耳を傾けることが今からとても楽しみである。

近刊案内

2025年5月29日出来予定

小津映画の音

正清健介 著
税込6,930円/本体6,300円
A5判・上製・360頁
ISBN 978-4-8158-1195-2
Cコード 3074

2025年5月30日出来予定

聖人崇敬の歴史

池上俊一・河原 温 編
税込9,900円/本体9,000円
A5判・上製・672頁
ISBN 978-4-8158-1196-9
Cコード 3022

2025年6月18日出来予定

戦後日本の形成と東アジア

沢井 実 著
税込8,580円/本体7,800円
A5判・上製・496頁
ISBN 978-4-8158-1197-6
Cコード 3033

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増刷案内

2025年5月下旬出来予定

消え去る立法者(第4刷)

王寺賢太 著
税込6,930円/本体6,300円
A5判・上製・532頁
ISBN 978-4-8158-1120-4
Cコード 3010

2025年5月1日出来

動物からの倫理学入門(第6刷)

伊勢田哲治 著
税込3,080円/本体2,800円
A5判・並製・370頁
ISBN 978-4-8158-0599-9
Cコード 3012

2025年4月10日出来

「国家総動員」の時代(第2刷)

森 靖夫 著
税込5,940円/本体5,400円
A5判・上製・432頁
ISBN 978-4-8158-0975-1
Cコード 3031

2025年4月10日出来

グローバル・ヘルス法(第2刷)

西 平等 著
税込5,940円/本体5,400円
A5判・上製・350頁
ISBN 978-4-8158-1056-6
Cコード 3032

2025年4月10日出来

経済成長の日本史(第4刷)

高島正憲 著
税込5,940円/本体5,400円
A5判・上製・348頁
ISBN 978-4-8158-0890-7
Cコード 3033

2025年4月10日出来

社会をつくった経済学者たち(第2刷)

藤田菜々子 著
税込6,930円/本体6,300円
A5判・上製・438頁
ISBN 978-4-8158-1097-9
Cコード 3033

2025年4月2日出来

彼女たちの文学(第2刷)

飯田祐子 著
税込5,940円/本体5,400円
A5判・上製・376頁
ISBN 978-4-8158-0835-8
Cコード 3095

2025年4月2日出来

フィクションとは何か(第3刷)

ケンダル・ウォルトン 著
田村 均 訳
税込7,040円/本体6,400円
A5判・上製・514頁
ISBN 978-4-8158-0837-2
Cコード 3010

2025年4月2日出来

対日協力者の政治構想(第2刷)

関 智英 著
税込7,920円/本体7,200円
A5判・上製・616頁
ISBN 978-4-8158-0963-8
Cコード 3022

2025年4月2日出来

アリオスト 狂えるオルランド 上[新装版](第2刷)

ルドヴィコ・アリオスト 著
脇 功 訳
税込6,600円/本体6,000円
A5判・上製・504頁
ISBN 978-4-8158-1082-5
Cコード 0098

2025年4月2日出来

アリオスト 狂えるオルランド 下[新装版](第2刷)

ルドヴィコ・アリオスト 著
脇 功 訳
税込6,600円/本体6,000円
A5判・上製・546頁
ISBN 978-4-8158-1083-2
Cコード 0098

2025年4月1日出来

細胞診断学入門[第三版](第3刷)

社本幹博・越川 卓 監修
長坂徹郎・横井豊治 編
税込6,930円/本体6,300円
B5判・並製・318頁
ISBN 978-4-8158-0895-2
Cコード 3047

2025年3月19日出来

詳解テキスト 医療放射線法令[第四版](第2刷)

西澤邦秀 編
税込4,950円/本体4,500円
B5判・並製・222頁
ISBN 978-4-8158-1085-6
Cコード 3047

2025年2月28日出来

みんなのFortran(第2刷)

松本敏郎・野老山貴行 著
税込3,520円/本体3,200円
A5判・並製・244頁
ISBN 978-4-8158-1087-0
Cコード 3004

2025年2月28日出来

三〇年代イギリス外交戦略[リ・アーカイヴ叢書](第2刷)

佐々木雄太 著
税込7,480円/本体6,800円
A5判・並製・414頁
ISBN 978-4-8158-1079-5
Cコード 3022

2025年2月3日出来

誇り高い技術者になろう[第2版](第4刷)

黒田光太郎・戸田山和久・伊勢田哲治 編
税込3,080円/本体2,800円
A5判・並製・284頁
ISBN 978-4-8158-0706-1
Cコード 3050

2025年1月29日出来

創発と物理(第2刷)

森田紘平 著
税込5,940円/本体5,400円
A5判・上製・278頁
ISBN 978-4-8158-1175-4
Cコード 3010

2024年10月8日出来

日本統治下の台湾(第2刷)

平井健介 著
税込3,960円/本体3,600円
四六判・上製・386頁
ISBN 978-4-8158-1158-7
Cコード 3022

2024年7月31日出来

ジョン・ダン全詩集[新装版]

湯浅信之 訳
税込11,000円/本体10,000円
A5判・上製・734頁
ISBN 978-4-8158-1161-7
Cコード 0098

2024年7月31日出来

レオパルディ カンティ[新装版]

ジャコモ・レオパルディ 著
脇 功・柱本元彦 訳
税込9,900円/本体9,000円
A5判・上製・628頁
ISBN 978-4-8158-1162-4
Cコード 0098

2024年7月31日出来

ペトラルカ 凱旋[新装版]

フランチェスコ・ペトラルカ 著
池田 廉 訳
税込6,600円/本体6,000円
A5判・上製・344頁
ISBN 978-4-8158-1163-1
Cコード 0098

2024年7月22日出来

グローバル冷戦史(第2刷)

O・A・ウェスタッド 著
佐々木雄太 監訳
小川浩之・益田 実・三須拓也・三宅康之・山本 健 訳
税込7,260円/本体6,600円
A5判・上製・510頁
ISBN 978-4-8158-0643-9
Cコード 3031

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