「はしがき」 (高島正憲著 『経済成長の日本史』)

高島正憲著 『経済成長の日本史』
「はしがき」 から

「天地は広いというけれども、わたしには狭くなったのだろうか。太陽や月は明るいというが、わたしのためには照ってくれないのだろうか。ひとは皆こうなのか、それともわたしだけこうなのだろうか。人として生まれて、人並みに働いているのに、綿も入っていない粗末な、海藻のように裂けてぼろぼろになった衣を肩にかけ、つぶれかかったような、倒れかかったような家のなかに、地面にじかに藁をしいて、父と母は頭の方に、妻と子は足の方に自分を囲むようにして、悲しみ嘆いている。かまどには火の気もなく、米を蒸す器には蜘蛛の巣がかかってしまい、飯をたくことも忘れはててしまった。ぬえ鳥のように、かぼそい力ない声で苦しみうめいていると、ひどく短いものの端をさらに切りつめるかのように、鞭をもった里長の声が寝床にまで聞こえてくる。こんなにもつらく、苦しいものなのだろうか、世のなかというものは。この世はつらく、消えてしまいたいと思うけれども、わたしは鳥ではないから、どこかに飛び去っていくこともできない。」 (山上憶良「貧窮問答歌」)*

 いまから1300年ほど前に律令国家の官人で歌人でもあった山上憶良が詠んだ 「貧窮問答歌」 には、破れた布服を着て狭い住居に暮らし、飯を炊く方法も忘れるほどに困窮した農民の姿が描かれている。この写実的な歌は、どれほどまで古代の人びとの暮らしの実態を反映しているのだろうか。その一方で、小野老が 「あをによし奈良の都は咲く花の薫ふがごとく今盛りなり」** と詠んだように、中央集権化を目指した律令国家によって建設された奈良の平城京では、王朝国家は本当に繁栄をきわめていたのだろうか。どうしようもないほどに貧しく描かれた私たちの祖先の大部分の人びとは、そして栄華をきわめた古代の貴族たちは、そしてその子孫たちは、その後、何らかの生産手段をもって営みを維持し、ときには破綻しながらも、時代をのりこえて現在の我々へと歴史を受けついできた。その間、いったいどのような生活の浮き沈みがあったのだろうか。

 この問いを経済学の関心に引きつけるなら、古代から庶民はどの程度の生活水準だったのか、そして、列島日本はどのくらいの経済規模だったのか、という関心となる。それは現在であれば、平均年収や生産にかんする統計や経済的指標といった具体的な数値によって知ることができる。だが、それを奈良時代にまでさかのぼって知ろうとしたとき、資料的な限界という大きな壁が立ちはだかる。そのような場合、特定地域の資料から算出した値を代表値として扱うか、何らかの仮定を設定した統計的加工、すなわち 「推計」 という作業をしなければならない。こうした歴史への接近法は、歴史の数量化ともいえるが、歴史学ではさほどメジャーな分野とはいいがたく、ときには、数量化によって描かれた歴史像はまったく信頼できないものとして否定されたり、フィクションだと揶揄されたりもする。

 だが、数量化された歴史とは本当に意味のないものだろうか。これまで、歴史学・経済史学によって、前近代日本の経済成長にかんする研究がなされ、さまざまなことが明らかになってきたが、それがこと長期のマクロ経済の成長となると、関連する議論は乏しく、ぼんやりとしかイメージできないのが現状であろう。たしかに、これまでにも前近代日本の人口や生産を数量的にはかろうとする研究は存在したが、それらは歴史の一時点、もしくは人口などの特定の系列を計測したものであった。結局のところ、私たちは前近代日本のマクロ経済の成長については具体的な数量をもって説明される歴史像をもっていないのである。

 こうした課題に挑戦するために本書が採用したのが、超長期の経済成長の分析である。具体的には、奈良時代から明治期初頭までを、1人あたりGDP (国内総生産) という歴史を縦につらぬく1本の串をもちいて観察することにより、前近代日本の経済成長を明らかにしようとする試みである。歴史学研究は時間のフローをあつかうものであるが、そのためには、ある時代とその前後の時代との間に存在する相違を比較分析するための共通の基本概念の枠組みをもちいたアプローチが必要になる***。本書であつかう超長期の推計は、それぞれ違った時代の歴史的資料からえられた経済的諸変数を同質化し、歴史的過程と再結合させて、それを経済学的な接近方法で分析する定量的な枠組みにたっている。たとえば、中世という事実上 「国家」 の枠組みがなく、複数の分権的な勢力による統治によって列島が形成されていた時代を、あえてGDPという 「国内」 総生産の指標をもちいて、列島日本の長期の経済成長という枠組みのなかでとらえたのも、こうした考え方によるものである。また、GDPというマクロ経済の各国共通の指標をもちいることによって列島日本の経済成長の歴史を (直接の政治・経済・文化などの交流の有無にかかわらず) 他国と比較するからこそ、地域が異なる国と国との間の経済成長の推移の違いが可視化され、そこにそれぞれの国の発展経路の違いをみつけることができるのではないだろうか。

 本書は、古代における律令国家の中央集権化の試みとその崩壊から、自由な中世社会における市場経済の萌芽、そして戦国期から織豊政権の全国統一を経て、徳川幕府による列島支配と市場経済への移行、開国から明治維新という近代化へ向けた長い経済成長の道のりを、超長期GDPの推計からみるものである。本書では可能なかぎり伝統的な経済史学の作法にしたがって、利用した文献を明示し、推計の方法について詳細に説明するようにこころがけた。なぜなら、本書がとった経済史の方法は定量的研究の傾向が強く、結果に対して他者による追試と批判的検討の可能性をもたせなければならないからである。批判が新たな問題関心を生み、そこから発展的な議論が進むのなら、それでよい (役割を果たした) と私は思う。もし、本書が提示した日本の経済成長のかたちが、経済学・歴史学・経済史学、それらの各時代・各分野の研究の発展に少しでも寄与することができれば、筆者にとってこのうえない喜びである。

*『万葉集』 巻5–892/893。原文漢文。口語訳の作成にあたっては、佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注 『万葉集1 (新日本古典文学大系1)』 (岩波書店、1999年、502–504頁)、小島憲之・木下正俊・東野治之校注 『万葉集2 (新編日本古典文学全集7)』 (小学館、1995年、70–72頁) を参照した。
**『万葉集』 巻3–32。原文漢文 (佐竹ほか校注 『万葉集1』、231–232頁)。
*** 新保博 「数量経済史の人間化」 (『三田学会雑誌』 第75巻第5号、1982年、17–26頁) を参照した。

近刊案内

2024年12月11日出来予定

淀川長治

北村 洋 著
A5判・上製・304頁
税込4,950円/本体4,500円
ISBN 978-4-8158-1178-5
Cコード 3074

2025年1月17日出来予定

PKOの思想

山下 光 著
A5判・上製・250頁
税込5,940円/本体5,400円
ISBN 978-4-8158-1179-2
Cコード 3031

2025年1月20日出来予定

モンスーン経済

ティルタンカル・ロイ 著
小林和夫 訳
四六判・上製・250頁
税込3,960円/本体3,600円
ISBN 978-4-8158-1176-1
Cコード 3022

近刊書籍のご注文を受け付けております。ご希望の方は、上の「注文フォーム」で手続きをお願いいたします。刊行次第、商品を発送いたします。

重版案内

2024年10月8日出来

日本統治下の台湾(第2刷)

平井健介 著
四六判・上製・386頁
税込3,960円/本体3,600円
ISBN 978-4-8158-1158-7
Cコード 3022

2024年7月31日出来

ジョン・ダン全詩集[新装版]

湯浅信之 訳
A5判・上製・734頁
税込11,000円/本体10,000円
ISBN 978-4-8158-1161-7
Cコード 0098

2024年7月31日出来

レオパルディ カンティ[新装版]

ジャコモ・レオパルディ 著
脇 功・柱本元彦 訳
A5判・上製・628頁
税込9,900円/本体9,000円
ISBN 978-4-8158-1162-4
Cコード 0098

2024年7月31日出来

ペトラルカ 凱旋[新装版]

フランチェスコ・ペトラルカ 著
池田 廉 訳
A5判・上製・344頁
税込6,600円/本体6,000円
ISBN 978-4-8158-1163-1
Cコード 0098

2024年7月22日出来

グローバル冷戦史(第2刷)

O・A・ウェスタッド 著
佐々木雄太 監訳
小川浩之・益田 実・三須拓也・三宅康之・山本 健 訳
A5判・上製・510頁
税込7,260円/本体6,600円
ISBN 978-4-8158-0643-9
Cコード 3031

2024年6月11日出来

男同士の絆(第8刷)

イヴ・K・セジウィック 著
上原早苗・亀澤美由紀 訳
A5判・上製・394頁
税込4,180円/本体3,800円
ISBN 978-4-8158-0400-8
Cコード 3098

2024年6月10日出来

超伝導接合の物理(第2刷)

田仲由喜夫 著
A5判・上製・356頁
税込6,380円/本体5,800円
ISBN 978-4-8158-1028-3
Cコード 3042

2024年5月27日出来

今夜ヴァンパイアになる前に(第2刷)

L.A. ポール 著
奥田太郎・薄井尚樹 訳
A5判・上製・236頁
税込4,180円/本体3,800円
ISBN 978-4-8158-0873-0
Cコード 3010

2024年5月15日出来

社会科学の考え方(第8刷)

野村 康 著
A5判・上製・358頁
税込3,960円/本体3,600円
ISBN 978-4-8158-0876-1
Cコード 3030

2024年4月30日出来

博士号のとり方[第6版](第4刷)

E・M・フィリップス/D・S・ピュー 著
角谷快彦 訳
A5判・並製・362頁
税込2,970円/本体2,700円
ISBN 978-4-8158-0923-2
Cコード 1037

2024年4月1日出来

教育原理を組みなおす(第2刷)

松下晴彦・伊藤彰浩・服部美奈 編
A5判・並製・336頁
税込2,970円/本体2,700円
ISBN 978-4-8158-1045-0
Cコード 3037

2024年4月1日出来

現代アート入門(第2刷)

デイヴィッド・コッティントン 著/松井裕美 訳
四六判・並製・224頁
税込2,970円/本体2,700円
ISBN 978-4-8158-1009-2
Cコード 3070

2024年4月1日出来

科学技術をよく考える(第6刷)

伊勢田哲治・戸田山和久・調 麻佐志・村上祐子 編
A5判・並製・306頁
税込3,080円/本体2,800円
ISBN 978-4-8158-0728-3
Cコード 3040

購入について

書籍を購入される方は以下の注文フォームからご注文下さい。

また、個別の書籍紹介ページ上からもご購入いただけます。ご購入に関する詳細については、下の「購入についての説明」をクリックして、説明をご覧ください。

その他の書籍購入方法

お問い合わせ

書籍に関するお問い合わせ、その他のお問い合わせについては、以下のメールアドレス宛にご連絡ください。電話でのお問い合わせも受け付けております。

info@unp.nagoya-u.ac.jp

TEL:052-781-5027

FAX:052-781-0697


ページの先頭へ戻る